読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

井伏鱒二『山椒魚』(1929)

*度重なる改稿

 初出は『幽閉』という題で、1923年(大正12年)に早稲田の同人誌に発表されたもの。その後、大幅に改稿されて、1929年(昭和4年)、『山椒魚』という題で再発表された。

 現在、一般的に読まれているものは、この昭和4年発表時のもののようだが、この作品は、その後、度々著者によって改筆が加えられていて、1985年(昭和60年)には、結末部分が大幅に削除されるなどの全面的な訂正が行われている。

 著者自身、この作品に相当拘泥し、苦心している様子が窺える。もともとこの作品は、1919年(大正8年)、著者が21才、早稲田文学部仏文科に進んだ時の習作であり、井伏鱒二の実質的な初作品である。そして、晩年、米寿を迎えるにあたって、作品の主題そのものを変えるような改稿を行っているのだ。
 当初の『幽閉』という題からも窺えるように、著者は、人生への失望のようなものを東洋的な諦念として受け入れるさまを描きたかったのかもしれない。しかし、井伏鱒二の代表作として広く一般に受け入れられたのは、最後に和解と赦しを示唆した蛙の言葉で終わる作品の方だ。

広告
 

*作品の主題

 作品の主題とすべきものに、著者自身が相当の迷いを感じていたためか、この作品は、主題の定まらない不安定さを感じさせる。
 しかし、それがかえって青年期の不安定な心理をうまく描写することにつながったのではないだろうか。

 山椒魚に自省の念は全くない。ただ自らの境遇を恨み、今までの自らの無為な生活を悔やんでいるだけだ。終いには、自由な生活を謳歌している蛙を逆恨みして、その小動物を自らの穴倉に閉じ込める。
 山椒魚の言動には、若者特有の驕りと野心が、そのまま投影されているように思える。全く意のままにならない現実に直面して、世間に怨嗟と失望の念を抱いている姿だ。しかし、世間に失望し、自責の念を全く持たないような若者に対しても、世間は彼を許容しようとする。蛙の言葉は、赦しの象徴だ。

 この言葉を山椒魚は、どう受け止めたのか。それは誰にも分からない。世を逆恨みしている若者に対しても、そのままの姿を受け入れようとする世間に対して、その若者はどう答えたのか―――

 不遇な境遇にある、あるいは、そう感じている若者の不安定な心理を描いているからこそ、日本を代表する文学作品のひとつとして非常に高い評価を受けているのだと思う。もちろん、これは一つの解釈に過ぎないが。
 『山椒魚』は、動物譚という形を取って、ある人間の心理を象徴的に表そうとする作品だ。そのため、作品の解釈は人それぞれであり、そこから多様な意味を見出すことができるはずだ。しかし、この作品には、やはり青春文学という雰囲気が色濃く漂っているように思う。太宰治は、青森中学1年の時に、この作品を読んで歓喜したらしいが、何か非常に良く分かるような気がする。

 だが、井伏鱒二の気質というのは、こうした心理的な内省の文学とは、全く異なるところにある。むしろ、様々な市井の人物の生活に、暖かな視線を注ぐ観察者の気質であり、井伏作品の中で『山椒魚』は非常に異質な作品になっている。

 これが、作者自身が終生、作品の主題に悩み、本題が定まりきらなかった大きな要因なのではないだろうか。井伏鱒二はやはり、情景描写の作家であり、心理描写の作家ではないということかもしれない。

*青年期の心理

 『山椒魚』は文庫本で10ページもないような作品だ。しかし、読者は、この短い作品の中にも多くの含意を汲み取ることができるだろう。それが象徴作品の面白いところだ。だが、残念なことに、この作品を最後に、以降井伏作品からは、心理小説、象徴小説は姿を消してしまう。

 『山椒魚』は、著者自身にとっても、若い頃の非常に不安定な一時期を正に象徴した作品だったのかもしれない。この作品を執筆した時期は、井伏鱒二本人が不遇な時代であり、不幸も重なった時だった。大学を追われ、職がなく、文学に進むきっかけとなった親友を失っていた。
 そういった非常に不安定な時期に書かれた作品だった。その後、著者はこうした不安心理を克服していき、作風も全く異なったものが主流になる。しかし、むしろ『山椒魚』は、この若い頃の一時的な不安心理を書き留めることに成功したからこそ、今でも多くの人を惹きつけている普遍的な作品になったのだと思う。

山椒魚(新潮文庫)

山椒魚(新潮文庫)

 

広告