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自然から人間へ ギリシア哲学の転換点 – F. M. コーンフォード『ソクラテス以前以後』(1932)

F. M. コーンフォード『ソクラテス以前以後』(1932)

古代ギリシア哲学史

汝自身を知れ―――

 デルポイの神殿に飾られたこの銘文は、ソクラテスの思想を最も象徴的に表した言葉だろう。

 ソクラテス以前の哲学は、イオニアの自然学派が中心で、彼らの関心は、この世界が何によって作られ、どのようにして生成と消滅を繰り返すのかということだった。
 人間の主観に彩られた神話的世界観から離れて、自然の物質への考察へと進んだギリシアの思想をソクラテスは、今一度、人間中心の思考へと戻すことになる。
 自然の物質的世界を知るよりも先に、己自身を理解できていなければ、その知識に何の意味があるというのか。自分自身、すなわち、人間への理解を進めることこそが、自分の務めである、そう確信したのがソクラテスだった。

 ギリシア哲学は、ソクラテスの登場によって大きな転機を迎える。ソクラテスの以前と以降とでは、その扱う主題が大きく異なっている。
 本書は、ソクラテスを一つの転換点として、このギリシア哲学の流れを描いている。文庫本にして150ページほどしかない小史だが、ギリシア思想の発展における要点を的確に捉えて解説している。ギリシア思想史入門の古典として、現代でも広く読まれている名著。以下、本書の記述に倣って、ギリシア思想史を簡単にまとめてみたい。

イオニア自然学派とソクラテス

 「もし馬や牛が手を持っていて、絵を描いたり、像を作ったりできるとすれば、神々の姿かたちを馬は馬のように、牛は牛のように表現するだろう。」

 現代の感覚からすれば、イオニア人のこの言葉には、大きな驚きを覚える。前6世紀のクセノパネスのこの言葉は、古代ギリシア人がいかに早くから神話的世界観から脱していたかを示している。

 自然を主観から切り離し、それ自体を独立した客体として見做すこと。そして、自然の中に普遍的な法則性を見つけ出すこと。
 このような極めて現代的な世界観を古代において構築した文化は、ギリシア以外にはない。

 自然を対象として観察する試みは、どの古代文明においても行われている。東方を旅したタレスは、エジプト人が土地測量のために長方形の面積を計算していることを知っていた。
 そして、タレスはこの計算方法が、土地測量以外にも応用できることに気が付いていた。人為的な目的を離れて、方法論を抽象化して一般化するという思考の始まりがそこには見られる。ギリシア人が他と異なるのは、直接的な利害関心から離れて、方法論を純粋に取り出そうとするその精神態度である。

 前6世紀初頭のこのタレスによって始まるイオニア自然学派は、前4世紀から3世紀にかけて、デモクリトスの原子論によって頂点を迎える。そして、このほぼ同時代に新たな思考を模索していたのがソクラテスだ。

 ソクラテスから見れば、自然学派の思想は、自然を機械論的に理解するもので、目的論的な理解が欠けていた。「どうして」という問いには答えても「なぜ」という問いには全く答えるものではなかった。
 ソクラテスが知ろうとしていたこととは、人は何を目的として存在しているのか、ということだった。ソクラテスにとって、魂の発見こそが、真の自己の発見であり、魂とは、善と悪を知り分けて、善を為すことのできる知識、すなわち内観の能力のことであった。

プラトン主義の成立

 ソクラテスの議論は、正しい「知」を得るために、言葉の本質的意味を表す厳密な定義を探す試みへと向かっていった。このソクラテスの議論を継承したプラトンは、特に初期の著作で、言葉の語義が人々の間でいかに混乱しているかということを示した。

 プラトンの思考の転換点は、およそ彼が40歳頃、南イタリアとシシリーを訪れた辺りに起きている。プラトンは、南イタリアの地でピュタゴラス派の哲学に触れて、数学的な発想の影響を受けている。
 ピュタゴラスは、数学的な概念を実在を超える神秘的、宗教的な存在として取り扱っていた。数学的な純粋に抽象的な概念を神秘的なものとして捉える独特の哲学は、プラトンにイデアという発想を与えたと考えられている。

 ソクラテスによる知の探究は、対話を通じて見出されるような弁証法的手法だった。プラトンは、言葉の厳密な定義は、数学的概念のように、人間の思考以前に客観的にすでに存在するものであって、直観と理性的推論によって「発見」されるべきものと考えた。ソクラテス的議論に、ピュタゴラス的思考を応用したともいえる。
 プラトンの中期の著作、『メノン』『パイドン』『饗宴』『パイドロス』『国家』といった対話篇からは、ソクラテス的弁証法からプラトン主義的イデア論への転換が読み取れる。

 このようにしてプラトンは、人間的道徳の原理を存在全体にまで包括する理論体系を整えることになった。この発想は、プラトン主義として、後の西洋哲学史に多大な影響を与えていくことになる。

アリストテレスによる総合

 アリストテレスがアテナイへ来てアカデメイアの学生となったのは、彼が18の時だった。その時、プラトンは60才で、アカデメイアの学頭を15年近く勤めていた。
 アリストテレスは、当初、師のプラトンをまねて対話篇の著作を記していたが、引用による断片を残して、そのすべてが現在では失われている。しかし、この事実は、アリストテレスが最初期にはプラトン主義者だったことを物語っている。

 しかし、プラトンが亡くなり、学頭職をスペウシッポスが継ぐと、アリストテレスはクセノクラテスとともにアカデメイアを去ることになる。
 トロアス地方(小アジア)のアッソスの僭主であるヘルミアスの招きに応じて、そこで研究を続けた。前342年、マケドニア王のフィリッポス2世の招聘に応じて、マケドニアに移るまで、主に生物学を研究していた。この頃から、アリストテレスの関心は、外界、つまり、自然界へと向けられていたと言っていいだろう。

 アリストテレスは、イデアや数学的概念が、それ自体として存在することを認めない。これらは、現実の物体の空間的属性であり、それ以外の性質を捨象して得られたものだ。
 このような考え方によって、アリストテレスは、プラトン主義によって二元論化した存在論を一元論化させた。また、彼のこのような思想は、プラトン主義の宗教的な側面である、魂の彼岸への憧憬を脱して、感覚への常識的な信頼へと立ち戻る試みだったともいえる。

 アリストテレスにとって、知識とは、感覚によって確かめうる事実から出発し、観察された諸事実を正当化する理論を発見したのちに、再び感覚による事実に立ち帰る、という道筋によって得られるものだ。
 ここには、演繹と帰納による理論構築、実証による理論の検証という、後の近代科学の萌芽となる発想がすでにみられる。

 観察と記述による科学は、ギリシア世界では新しいもので、ヒポクラテスとコス島の医学派の臨床記録以外には見られないものだった。アリストテレスは、自然科学の諸分野を数学と同じく学問の一分野へと引き上げたのである。

 アリストテレスの思想が、プラトン主義の正当な継承者であると言える点は、魂やイデアの持つ道徳的性格を自然界の秩序にも要求したところだろう。すべての物質と生物を含む自然界の秩序は、目的因によってのみ理解される。
 この思想は、後にリュケイオンのアリストテレス学派として受け継がれていく。

ギリシア思想とは

 ギリシア思想は、イオニア自然学派によって、自然界に存在する秩序への探究から始まった。ソクラテスは、自然から人間それ自体へと探究の目を向け変え、人間の思考、すなわち魂と言葉を思想の最も重要な対象として扱った。
 ソクラテスの思想を受け継いだプラトンは、魂と言葉の探究から、それらを自然を超えた理念的実在へと導いていった。そして、アリストテレスによって、再び自然界への探究がはじまり、理論と実証の総合が図られた。
 一度、プラトン主義を通過した後のアリストテレスの思想は、イオニア自然学派の機械論的な自然理解へと立ち戻ることはできなかった。目的因や可能態といった自然秩序の背後にある意志を読み取ることがアリストテレス主義のひとつの目的となっていく。

 ギリシア思想の発展の流れは、おおよそこのようにまとめることができるだろう。ギリシア思想史の中には、現代において基礎となっている哲学的発想がほとんど全て網羅されている。人間が考えうる思考の在り方というのは、ほとんどこの時代に出尽くしているのだ。
 ギリシア思想を眺めていると、この時代のギリシア人の思想にはただただ驚かされるばかりだが、それと同時に、人間の考える発想というのは、大して発展しないものだ、ということも実感できる。