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批判的読書のために – M. J. アドラー『本を読む本』(1940)

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M. J. アドラー『本を読む本』(1940)

批判的読書のために

 原著は1940年の刊行。

 戦前の古い著作で、単なる教養主義的な読書論を展開しただけの内容ではないかと思って長年読むのを敬遠していた本だった。だが、たまたま古書店で安く手に入ったのでふと読んでみたら、批判的読書(critical reading)の基本を説明した実践的な中身の本だった。(もっと早くに読んでおけばよかった。)

 本書は、読書をいかに有効でかつ意義のあるものにするかを体系立てて説明していて、読書の技術的な面に焦点を当てている。

 現在の多くの読書術が、速読や効率性を重視し、知識を習得する上での要領の良さを強調しているのに対し、本書で紹介されている読書術は、読書によっていかに自分の価値観を築き、見識を広めていけるかという点を重視している。
 読書の最終的な目標を批評精神の確立に置いているのが特徴だ。そして、そのための方法論が、批判的読書(critical reading)と呼ばれるものだ。

 読むべき本を見つける点検読書に始まり、著者の意図を正しく理解し、概要を把握するための分析読書、さらににそこから自分で主題を見つけて探求していくシントピカル読書へと段階を追って高度になっていく読書術を丁寧に解説している。

 特に分析読書の最終段階で、著者と対峙することの重要さを強調している。つまり、著書に対して読者が批評し、評価を与えることだ。これは感想文とは違う。論点を整理し、どの点においてどう評価するのか、その根拠は何かを自分の中で明確にする。そして著者は、批評をする際の知的礼節にも言及している。
 こうして批判精神を育てることで、自らの価値観を確立していくこと、それではじめて読書が自分のものになったと言える。

日本における国語教育の問題点

 こうした読書術は、本来学校教育で教えられるべきものだと思う。日本の国語教育は、文学作品の鑑賞が中心で、感想文を書かせるだけのものになっている。文章の客観的な把握や評価が蔑ろにされて、論理よりも情操教育を重視している。
 しかも感想文を書かせるのであれば、多様な考えや意見が出て当然だと思うのだが、道徳的、社会的に許容される意見のみ書かせるように教師が誘導していたりする。結果、型にはまった優等生的な回答ばかりになる。こんなのは、はっきり言って国語教育ではない。

 話が横道にずれたが、「読解」というのは、著者の意図と論点を正しく把握するための技術であり、「批評」というのは、評価を与えることで自らの価値観を築いていく行為のことだ。こうした読解と批評のための技術があってはじめて批判的読書が可能になる。本書はその入門書として優れたものだと思う。

最後にちょっと翻訳について

 本書の中で唐突に「シントピカル」という言葉が出てくるが、何か適当な訳語はなかったんだろーか?「共主題」とか何か訳語を作っても良かったように思う。すぐに意味不明なカタカナ語を使うのは、日本人の悪い癖だ。

 また本書の邦題も「本を読む本」という凝った(こじゃれた?)ものを付けているが、こうした含蓄を楽しむような文学趣味が、日本の国語教育を貧相なものにしている原因の一つだと思う。
 誤読や自己流解釈を排して、客観的な評価を与えられるようにするための読書技術を紹介している本書には似つかわしくない題だろう。単純に「読書のための技術」(原題はHow to read a book)とでもした方が、著者の本来の意図にかなっているように思う。

 最後に少しケチを付けてしまったが。。。すんません(><)
 が。
 翻訳は読みやすく、原書の内容もすばらしい。ぜひ、一読をお勧めします。