読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

清水幾太郎『本はどう読むか』 (1972)

*読まれる読書から読む読書へ

 読書というのは、なんとなく読んでいるだけで、自分が考えたような気になってしまう。しかし、著者に言わせると、それは本に「読まれている」だけで、自分にとって意味のある読書体験にはなっていない、ということらしい。

 まぁ、確かに、字面だけ追っていって、なんだか読んだような気になってしまい、その後になって何も自分の中に残るものがなかった、という読書体験は、よくある。(えぇ、腐るほどあります。)
 そういう場合は、大概、本の内容を忘れている。ヒドイときは、その本を読んだこと自体を忘れてたりする。(えぇ、この前もBookoffで同じ本を買ってしまいました。)

 そーいう読書をいくらやっていたところで何の意味もない。ショーペンハウアー流に言えば、「本を読むとバカになる」といったところだろう。

 そこで大事なことは、受け身の読書から、主体的な自己中心の読書へと転換することだ。著者は、モンテーニュの例を引いて、読後感をまとめることが良いとススメている。よーするに感想文を書くということだ。
 もちろんここで言う感想文とは、小学生が宿題でやらされるようなもののことではない。今で言うReviewのことだろう。

 この感想文(Review)を書くためには、まず、内容を客観的に捉えることのできる能力が必要だ。こういったものは一朝一夕に得られるものじゃない。それなりの訓練が必要だ。著者の場合、ノートやらカードやらを使って、書き抜きやまとめを作るなど、さまざまな手段を試しているようだ。著者は、これらの方法は、あまり役に立たなかった、と述べているけれども、こうした地道な訓練で、一度徹底した客観主義に立って、内容の正確な把握に努めることが大事だと思う。
 こうした下地ができ上ってから、はじめて、自己の主体的な読書ができる。そこでようやく「感想文」が書けるようになるのだ。


*感想文を発表する場

 感想文を書いて、読書への理解を深めたとしても、それを発表する場がない、というのは何か物足りなく感じる。そういう点では、今の時代は、非常に便利だ。BlogでもReview Siteでも、ネット上には、いくらでも発表する場がある。まぁもちろんそのほとんどは、サイバーデブリとなって、どこかのサーバーの奥深くのゴミになっているだけだろうが。。。(えぇ、このBlogも間違いなくサーバー奥深くのゴミログになっていることでしょう。)でもまぁ気軽に発表できる場があることだけは確かだ。

 ネットのなかった時代は、読書会がこうした役割を担っていたのだろう。この本が書かれた時代は、もちろんネットなんかない。読書会がまだ意味を持っていた時代だ。しかし、著者はこうした読書会には否定的だ。

 読書というのはあくまで自己の内面と向き合うためのもので、誰かとそれを共有するためのものではない、というちょっと古風な教養主義的読書論を述べている。
 まぁ、だいたい読書会をやりたがる人というのは、会の運営自体が好きな人だったり、人と会うのを楽しみにしていたりする人だったりすることが大半なので、読書会は、読書に向き合うということにはあまり向いていないものだと思う。それは、今でも全く同じで、読書会で検索すれば、いろいろと引っかかってくるが、どこも人との出会いや集まりを趣旨としているのがほとんどで、読書を自分の血肉化するのに役立つようなものからは、程遠いものばかりだ。
 やっぱり、読書というのは孤独な作業なのだろう。

本はどう読むか (講談社現代新書)

本はどう読むか (講談社現代新書)

 

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