読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

公共事業に群がる人々 その2

f:id:hobo07:20170611022035j:plain

藤井聡『公共事業が日本を救う』 (2010)

*公共事業の問題点
 民主党政権ができてよほどあせったのであろう、なりふり構わず公共事業への予算を確保するために、急遽出版した本、といった印象。

 この著者は、公共事業はすべて無駄である、という行き過ぎた議論に警鐘を鳴らすと述べているが、誰も公共事業のすべてを廃止しろなどとは述べていない。どうやらこの著者は、見えない敵と一人で戦っているようだ。

 公共事業で問題にされていることとは、利益誘導政治の温床になるということであって、ハッキリ言って、それ以外に問題はない。問題の所在そのものは極めて単純なのだ。

 民意をまったく反映しない一部の人間の利益によって、まったく合理性、必要性のない事業に巨額の予算、つまりは税金がつぎ込まれてしまうという点に問題がある。したがって、一部の人間の権益のために政策決定が歪められてしまう構造を見直し、合理的な政策に予算が配分される仕組みを作ることこそが、公共事業をめぐる最大の政治的課題なのだ。
 この課題を実現できなくては、公共事業に対する批判や国民の怒りが消えるわけがない。しかし、この著者は、この点には一言も触れず、予算だけは削るなとひたすら連呼するのだ。

*高速道路事業をめぐる問題
 全体的な議論の方向性そのものが間違っているのだが、各論においてもお粗末で雑な議論が多い。
 まず、高速道路に関してだが、日本の高速道路の狭さが問題として取り上げられている。日本では、6車線以上の高速道路は8%しかなく、3車線以下の狭い高速道路が30%近くを占めている。諸外国に比べ立ち遅れたこのような走行環境が、慢性的な渋滞を引き起こしていると著者は述べる。
 しかし、日本のように可住面積が狭く、緑被率が極めて高い国では、国土そのものが制約となっていて、高速道路の拡幅工事にはおのずと限界がある。人口密度の低い諸外国と安易な比較はできない。

 そして最も重要な点だが、渋滞の最大の要因となっているのは、車線数の問題ではなく、料金所なのだ。ドイツのアウトバーンは、完全に無料なことで有名だが、アメリカ、フランス、イギリスなどの主要国においても高速道路はその殆どが基本的に無料だ。料金所が存在する割合も、走行距離に対してきわめて低い。 頻繁に足止めを食らう日本とは大きく違う。
 渋滞の解消を主張するのであれば、まず料金所を廃止し、高速道路は原則無料化にする方法を模索すべきだ。だが、おかしなことにこの著者は、渋滞を引き起こす最大の要因となっている料金所にはまったく言及していない。官僚の権益を侵すことになる発言は慎重に避けているといった印象だ。

 料金所で支払われる料金は、道路特定財源として徴収され、官僚の裁量の余地が濃い財源となる。国会の審議を経る一般財源とは違い、この特定財源が、かつての道路公団やその下にコバンザメのように張り付いている何千という外郭団体によって如何に無意味な使われ方がされたのか、それが問題になったのはつい数年前のことだ。この道路公団とその外郭団体はすべて官僚の天下り先だ。
 道路族議員と官僚は、道路公団を民営化することで問題の幕引きを図ったつもりなのだろうが、予算執行に関する本質的な問題はなんら変化していない。道路予算に関する報道が減って国民の関心が薄れてくると、ほとぼりが冷めたといわんばかりに御用学者が暗躍しだす。

 少なくとも道路の維持管理に道路特定財源という方法が適切であるのかどうか、利用者負担の原則に立つとしても料金所という方法以外の負担方法はないのか、その点をまず検討し直すべきで、そのような検証をまったく欠いたまま予算だけは削るなと声高に主張するのは、学者の態度として誠実さに欠ける。

*日本の都市計画に見る政治不在
 このような公共事業の歪みは、都市部のインフラ整備において最も顕著に見て取ることができる。
 公共事業を中心とした財政政策によって景気浮揚効果を狙うのであれば、公共投資効果の高い都市部を優先させる必要がある。しかし、実際は、投資効果の低い地方を中心に予算が配分され、都市部の整備はなおざりにされてきた。その結果、日本の都市部の住環境は、先進国の中で最悪の部類である。

 都市計画が全く不在で、都市の中心部(北米の都市に見られるいわゆるダウンタウン)が不明瞭な都市構造。中心部不在の結果、無計画に広がる公共の交通機関。鉄道、地下鉄、バスともに一目見ただけでは一体どこに向かおうとしているのか、全くわからないぐちゃぐちゃな路線図。区画整理がでたらめで、商業施設から住宅、さらには風俗店までが混在し、歴史的建造物の隣に平気でパチンコ店を立てるような恥知らずな土地利用。そして、絶望的に醜い街路と都市景観…

 もういまさら修正は不可能なほど日本の都市構造は歪んでいる。本来は、都市計画という公共事業ほど政治と行政の指導力が問われる分野はない。しかし、政治不在の中で都市計画は、民間による地域再開発中心で、その場その場の場当たり的なものしか行われていないのが現実だ。公共事業が政治不在の中でいかに歪んだものになっているのかがよくわかる。

 都市の機能は一ヶ所に集中させ、そこに人の流れができるように公共の交通機関を整備していく。そしてその一方で、その中心部への個人の車の流れを制限し、都市部の渋滞を緩和させる。都市の中心部は、むやみに拡大させていくのではなく、人口100万から300万ほどで一つの中心部を作り、それを単位として一つの都市を形成させていく。
 欧米の都市構造を少しでも観察してみれば、このような明確な計画性の下に出来上がっているのがよくわかる。
 それと比較して、日本の都市計画がいかに杜撰で思想性がないかは、極めてはっきりしている。日本の都市機能が劣悪なのは、その必然的結果だといえる。日本の都市の機能不全は、いちいち著者のいまどき珍しくもない留学体験など聞かなくても、少しでも海外を観察すればわかることだ。

 都市の再開発は必要である。たとえば小さな例で言えば、私も藤井氏の言うように、都市部の電柱は防災と景観の観点からすべて地中化すべきだと思っている。しかし、電柱の地中化ひとつろくに進んでいないのが実情だ。
 都市部の住環境についてその他の点に関しては、もう目も当てられない。防災対策の遅れた密集住宅。狭小な住宅に高額の家賃。長時間の通勤、通学。全く改善されない満員の電車。公園や緑地の極端な不足。老朽化する校舎や橋。(最近ではこれに放射性物質の除染まで加わった。)
 こうしたすべてがなおざりにされてしまうのは、公共事業が決定される仕組みそのものが根本的に間違っているからだとしか言いようがない。それは結局、日本では公共事業が、政治家の利益誘導の道具、官僚の利権確保のための手段としてしか認識されていないからだ。

  改めて言うが、都市計画という公共事業ほど、政治が主導力を発揮し、公共的な観点から進めなくてはならない分野はない。公共事業を官僚と族議員の利権から開放して、強力な指導力と明確な企画性の下に実行できる仕組みを作らなければ、公共事業への信頼は確立できないだろう。

*必要な公共事業とは
 公共事業は必要だ。問題は、それをいかに合理的、かつ公平に実行できる制度を作るかにある。
 それを藤井氏は、公共事業は必要だ、という誰もが認める前提から、だから予算を削るのは誤りだ、したがって公共事業はどんどんやれ、というバカボンのパパもびっくりな論理展開を本気で主張している。こんな論理展開を本気で言えるとしたらそれは、単細胞でなければ、官僚の権益を守ろうとしているかのどちらかだ。

 政治不在の中で公共事業が利権化し、本来行われるべき公共事業がなおざりにされている。
 現在行われている公共事業は、景気浮揚効果に乏しく、財政を圧迫し政策の自由度を狭め、財政危機を招来し、経済効率性を欠いた事業で、社会的、経済的に必要性のないインフラを何の検証もなく行っていて、そのツケをすべて後世にまわす、という救いようのないものである。そして、その結果として、都市部の整備は遅れ、経済の停滞は長期化し、財政は破綻寸前で国民は増税を押し付けられている(消費税10%もすぐそこだ)。このような政治不在の状況を平気で耐えている日本国民のマゾヒズムには、あきれるほかない。

 公共事業は、その仕組みを見直すところから始めなくては、国民の信頼が得られるはずがない。藤井氏の公共事業が必要だというごり押しの公共事業推進論は、この点を完全に等閑視している。あるいは巧妙に避けている。私には、彼の議論は、現在の公共事業見直しへの論調を言葉や話題を慎重に選びながら巧妙に回避させようとしているようにしか見えない。

 世界でも右に出るものはない強靭な日本人のマゾヒズムもそろそろ限界に来ていることを、公共事業を私物化する官僚と族議員、及び御用学者は忘れるべきではない。
(2012/9/1)

広告