読書亡羊

気ままに読書、気ままな読書日記

Friedrich Nietzsche『ツァラトゥストラ』 (1885)

*Reader's High
 なんだかめまいの様な、頭がくらくらする感じだ。ニーチェツァラトゥストラをようやく読み終えた。
 これだけ意味不明で脈略のない文章を文庫本上下巻で永遠と読まされ続ければ、誰だってそりゃ、幻惑のようなくらくらした感覚を覚える。そうした読後の一種、高揚した気分の中では、「価値の転換」を叫びたくなる感覚も分からなくはない。
 ニーチェの言葉は、まるで自分の孤独や不安を救いだしてくれるような、さまざまな秀句に溢れている。多感な時期に、あるいは自分の精神が不安定なときに本書に触れれば、その言葉は、もっと重い意味を持って自分にのしかかってくる。若い読者ほどそうした読後の高揚感は強くなるだろう。

 走者にrunner's highがあるように、読書にも似たような高揚感をもたらす効果はあるんじゃないかと思う。なぜ難解で浩瀚な書物を人は読もうとするのか。読み終えたあとの達成感や高揚感がそこにはあるからだ。ニーチェツァラトゥストラは、まさにそういった本だ。

 しかし、読後の興奮も覚め遣って、冷静になって本書を見てみると、ツァラトゥストラの言葉はもっと違ったものとして見えてくる。要領の得ない言葉を永遠と並べ、人を煙に巻いて喜んでいるような、人を小馬鹿にしたような態度だ。そう捉えると、本書はもっと面白く見えてくる。

*道化師としてのツァラトゥストラ
 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、4部構成で、1883年から85年にかけて出版された。出版当初は全く反響もなく、ほとんどの人からも理解されなかった。最後の第4部にいたっては、出版社がつかず自費出版でわずか40部しか発行されていない。
 だが、1890年頃から、一部で熱狂的な受け入れられ方をしていく。このニーチェ熱はナチスにまでつながっていく。

 しかし、熱に浮かされた態度から少し離れてみると、本書の文章は、もっと単純ですんなり理解できるもののように感じる。要するに、この要領の得なさこそが、ツァラトゥストラにとっての最大の演出なのだ。
 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、今まで多くの思想家や学者によって研究がなされてきた。永遠と続く、矛盾だらけで要領の得ない文章にさまざまな解釈が与えられ、毀誉褒貶が加えられてきたが、それを見てほくそ笑んでいるツァラトゥストラの顔が浮かぶようだ。まさにそのような演出に引っかかって踊らされている人々を見て小躍りしているツァラトゥストラの姿だ。そのような道化師を作り上げたことこそが、ニーチェの最大の功績だと思う。

 ニーチェツァラトゥストラは、伝道師ではなく、道化師だったと思う。
 神の死を宣告し、超人の到来を説いて回るツァラトゥストラは、伝道師、あるいは、預言者だったといえるだろうか。もし、そのような伝道師的な存在としてツァラトゥストラを見た場合、ツァラトゥストラからは、逆説的なニヒリズムを説くニヒリズムからの救済者としての姿が浮かび上がってくる。ニヒリズムの時代であるからこそ、むしろニヒリズムを徹底して一度すべての価値を否定し、自らの価値を自ら新たに創造できる超人として生きること。。。
 これはツァラトゥストラに対する最も一般的な解釈だろう。こうした考えは、ニーチェの他の著作『悦ばしき知識』『曙光』などにも窺える。

*生への意志から権力への意志
 ニーチェが他の著作で繰り返し問題にしていることの一つは、ニヒリズムだ。ニーチェからすれば、ヨーロッパの近代的知性が直面している最大の危機とは、ニヒリズムの到来だった。このニヒリズムは、人間の理性が発達した結果としてもたらされるものだ。

 ニーチェの理性は、キリスト教の中にルサンチマンという欺瞞をかぎつけた。ルサンチマンとは、端的にいえば、弱者が今いる自分の惨めで虐げられた姿を肯定するために、貧しいこと、弱いことを正しいこととして、価値の転換を行うことだ。キリスト教に限らず、どのような宗教、道徳もその背後には虚偽性や欺瞞が隠れている。

 歴史学、特に厳密な科学としての古典文献学は、宗教や道徳にまつわる神話性を容赦なく剥ぎ取っていく。人間の知性は、遅かれ早かれ、かならずそうした欺瞞性を暴きださずにはいられない。そしてすべての価値は、歴史的に相対化されていく。

 すべての物事が相対化していくのは近代の宿命だ。すでに、ヨーロッパの近代的理性は、客観的な真実のみを追究する科学的な態度と精神を人々の間に生み出していた。かつての宗教的信仰は、科学的な態度の下で徐々に解体されていく。そして、すべての物事が信じられなくなったニヒリズムの時代が到来する。理性の時代である近代は、このニヒリズムから決して逃れられないだろう。
 このニヒリズムから人々を救済するための存在がツァラトゥストラだ。

 『ツァラトゥストラ』は、ツァラトゥストラが洞窟から出て、町の人々へ神の死を知らせるために山を降りるところから始まる。
 人々はいまだにニヒリズムの到来にすら気付いていない。神は死んだというのにいまだに古い価値観に囚われたままだ。人々に神の死を告げ、ニヒリズムの到来を知らせなくてはならない。
 そして、ニヒリズムの時代を生きる超人の姿を示さなくてはならない。この超人は、「いま・ここ」を生きる「生」の肯定だ。弱者のルサンチマンでしかない道徳に抗い、生への意志を貫徹する存在、それが超人だ。

 正しくないことが悪なのではなく、弱いことが悪なのだ。この超人による生への意志は、容易に権力への意志へと置き換わる。そして、実際にニーチェの妹によって、ニーチェの断片的草稿が、『権力への意志』として纏め上げられ、そのようなものとして一般に流布した。

 しかし、私はどうしてもツァラトゥストラの姿にそのような「権力臭さ」を読み取ることが出来ない。山の上の洞窟と町との間を往来し、賎民たちと酒宴を開き、陽気に踊るツァラトゥストラの姿には、世俗を超えた生き方しか見えてこない。
 要するに、飲んだくれて陽気に踊っているだけの働かないオッサンの姿だ。超人の生への意志は、本当に権力への意志へとつながるのだろうか。

*飲んだくれの陽気なおっさん
 『ツァラトゥストラ』だけを読めば、ツァラトゥストラが酒宴に招いたのは、賎民たちであり、「高級な人々」と呼ばれているのは彼らだ。
 強者が生への意志を全うできるのは、当然の摂理だ。本当は虐げられた人々、弱者こそが、超人の思想を必要としたのではないだろうか。宗教や道徳というものは、歴史上常に権力者によって統治の原理として利用されてきたのだから。超人の思想による価値の転換を本当に必要としているのは、弱者なのだ。

 弱者が弱者のルサンチマンとしての宗教や道徳にすがっている限り、それはすべて権力者たちによって利用されるだけだろう。弱者こそが弱者のルサンチマンを克服して、自らの生き方を確立せねばならない、ツァラトゥストラはそう語っているように私には見える。

 ツァラトゥストラは超人の思想を伝えた伝道師ではなく、ニヒリズムの時代を生きる道化師だ。ルサンチマンは他者との比較の中から生まれる。伝統や社会といった存在も含め、他者から与えられる価値観ではなく、もっと自分自身の生き方を肯定しろと唱えているのがツァラトゥストラなのだ。その意味でツァラトゥストラは、権力志向なのではなく、脱社会的なのだと思う。『ツァラトゥストラ』だけを読めば、そのような姿しか見えてこない。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、もっとその作品を単体としてだけ読まれるべきだと思う。ツァラトゥストラは、いかめしい思想を伝える伝道師でもなければ、預言者でもない。ただ、陽気に呑んで踊っているだけのおっさんなのだ。

 Also sprach ich!

ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

 
ツァラトゥストラ(下) (光文社古典新訳文庫)

ツァラトゥストラ(下) (光文社古典新訳文庫)