女性への眼差しの変化 – 太宰治『満願』

太宰治『満願』(1938)

 八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、

「ああ、うれしそうね」と小声でそっと囁(ささや)いた。

 ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。

「けさ、おゆるしが出たのよ」奥さんは、また、囁く。

 三年、と一口にいっても、――胸が一ぱいになった。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。

 たった3ページほどの小品だが、非常に印象に残る作品。
 あぁ太宰ってこんな作品書いてたんだ。。。と思わされる。それくらい他の作品には見られない「明るさ」を感じさせる。

 発表が昭和13年(1938)の9月、4年前の『ロマネスク』執筆時の話、といっているので、昭和9年(1934)、太宰が25歳の頃の出来事ということになる。この時期の太宰は、田辺シメ子との無理心中から一人だけ生き残り、大学もろくにいかず、共産主義活動からも足を洗い、ただ日々を無為に過ごしていた頃だ。一方で、遺書として発表の当てのない作品群をひとり書き綴っていた。

 文学か死か――

 まさに自らの精神を極限にまで追い込んでいた頃のことである。
 その頃の日常の極めて些細な逸話を今になって思い返している。それも一つの明るい兆しとして。

 この作品を発表した翌年、太宰は師である井伏鱒二の勧めに従い、石原美智子と結婚している。この作品を執筆していた時に太宰に大きな心境の変化があったことは明らかだろう。

 それまでの太宰の女性との付き合い方は、自らの厭世観から来る破滅願望を女性に投影して、それに共感してくれること相手に望むといったものだ。前年の小山初代との自殺も失敗に終わり、初代とも別れることになった。

 そうした太宰が、自らの自殺願望を改め、人並みに生きていこう、結婚し所帯を持とう、と心を改めた。そのような心境の変化を一つの作品として落とし込んでいる。その意味で、太宰の転機となる作品で、この作品を境に中期作品群が生まれていく。

太宰の「女性への眼差し」の変化

 なぜこの作品が太宰の契機となる作品と言えるのか。それは、この作品には、太宰の女性へ眼差しの変化が見て取れるからだ。自伝的作風の小説が多い太宰だが、実はこの時期の心境の変化を子細に語るということを太宰はほとんどしていない。つまり、この時期の心境の変化を語っている作品というのがほとんどない。そうしたなかで、この作品では「女性への眼差し」を通じて、太宰は自身の心境の変化を象徴的に表現している。

 この時期太宰に心境の変化が訪れたとして、彼はなぜこの作品を書こうとしたのだろう。言い換えれば、なぜ太宰はこの頃の心境の変化を表すのに4年も前のこの些細な出来事を題材として選んだのだろうか。

 それはこの出来事において、彼がごくありふれた「女性の幸せ」の在り方をまざまざと見せられたからだろう。それまでの太宰は自分の破滅的な願望の中でしか女性とのかかわりを持たなかった。それが、この作品では、女性のありふれた「家庭の幸福」が描かれている。それが時を経るにつれて、次第に美しく感じられるようになったと太宰は述べる――

 この女性の夫は、肺を病んでいた。おそらく結核だろう。重症ではないのだろうが、家の中で隔離を強いられていたのだろう。もちろん家族との接触も制限されていたはずだ――三年もの間。
 若い女性には非常につらいことだったはずだ。それももう終わる。その喜びを太宰は「白いパラソルをくるくるっとまわした。」という絵画的な手法できわめて印象的に描いている。こうした表現は太宰の得意とするところで彼の作品の非常な魅力の一つだろう。

 ひとりの女性と生涯をともに歩いていく――破滅的ではなく――そうした女性とのありふれた幸せの在り方が、象徴的に描かれているのがこの作品なのだ。

 太宰はこの女性の幸せそうな姿を偶然に見たにすぎないが、今振り返って考えてみれば、お医者の奥さんの「さしがね」がったのではないかと思い返している。それは、当時破滅的で自堕落な生活を送っていた太宰に対して、人並みの幸せを送りなさいという、奥さんの言外からの気遣いであり、やさしさだったのだろう。

追記

 ただし、太宰は戦後になってこの「家庭の幸福」を否定するようになる。戦争という若者たちの無意味な死を前にして、罪の意識に捕らわれていくのだが、それだけに、太宰の僅かな幸福の時期の始まりを示す作品として、この作品はその「明るさ」を増しているように思う。